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傷寒論医学の継承と発展

張仲景学説シンポジウム

第1回大会に参加して

 詩経に「道は時と偕(とも)に行わる」といい,中国の詩に「野火焼けども尽きず,春風吹きてまた生ず」とある。悠久の歴史の流れは常に興亡消長を繰返しているが,陰陽論歴史観の流転に根ざしている。
 日本は7世紀のはじめより,中国の隋・唐・宋より金・元を経て,明・清の各時代の医学に学び,時とともに推移してきた。日本化された漢方医学は,18世紀以降江戸時代において,百花繚練乱と開花し,中国に劣らぬいくつかの研究が集大成されてきた。しかし19世紀明治初期になって,日本の漢方医学は国政の変革とともに法的抑圧に遇い,衰亡の一途を辿っていた。しかるに以来50年にして漸く復活の兆しを示し,いま興隆の黎明期に際会するようになった。漢方製剤の薬価基準登載によって,一般医師が漢方薬を採用すること多く,僅か数年にして,一挙に約数万を数える程になっている。
 中国においては,20世紀のはじめ,国民政府が日本と同じように漢方禁止令を発布してこれを禁圧しようとしたが,中医は団結してよくこれを克服し,革命後は中西合作の指導によって,30年間,中西医結合による新境地を開拓した。しかし,近年中国の医学界では新しい路線が協議決定され,中医・西医・中西医の3本建てとなり,丁度鼎の3本脚のように,バランスをとり,即ち鼎立してそれぞれの研究を進めてゆくこととなった。
 革命当初の中医の数は約50万といわれていたが,現在はその半数となり,このままでは伝統の中医学は自然に衰退することを憂え,新しくその基礎を確立し,後進を指導育成すべきであるとの主張が強く打ち出されてきた。
 その第1着手として,中医学の原典『傷寒雑病論』の著者,医聖漢の張仲景を最前線に高く掲げ,去る1982年10月18日より4日間に亘り,中華全国中医学会の主催で「張仲景学説シンポジウム・第1回全国大会」が,仲景誕生の地であり,三国史ゆかりの舞台でもある河南省南陽市において,華々しく開催された。
 中国側からは,全国各省の傷寒論研究者代表300名が選ばれて参加,その中より34題の研究発表があり,日本側からは,日本東洋医学会代表団13名中9名,日本医師東洋医学研究会代表団7名中2名が発表を行ない,発表後討論会が催されて,今後引続いて日中合同による相互提携交流の企画について懇談した。
 第1日の発会式では,日本東洋医学会代表団の持参した,日本における張仲景関係の医史資料6品と,参加者の著書24冊を一括して目録を添えて贈呈し,満場の拍手を浴びた。
 大会4日目,この日も雲1つない晴天に恵まれ,張仲景の墓祠を中心に新しく建築された,壮大な城廓を思わせる医聖祠・医史文献資料館の奥深く整備された墓碑前において,厳粛な追薦祭,日中両代表団の献花参拝,記念撮影,将軍柏の植樹祭などの行事が行われた。
 恰も日中国交正常化10周年,また日中平和友好条約締結4年に当たり,私は幸い毎年機会を得て,第4回目の招待訪中に参加,この大聖典に列席できたことは生涯の感銘であった。
 中医学会では,更に素問学説研究会を発足させ,中医学の原典に帰って徹底的再検討を続けるということである。
 南陽市は,その昔古都洛陽の栄えた頃は要衝の地であったが,10年前にはじめて鉄道が敷かれたという僻地で,その頃人口2万人の小都市であった。いまは26万人に膨脹したというが,街の佇いはまことに静かであった。しかも未開放地区でホテルと名のつくものもなく,私達には党の幹部の宿舎があてがわれるという予報だったので,心の中で案じながら到着したが,宿舎は新築間もない3階建ての南陽友誼賓館で,全員1人1室という思いがけぬ豪華な優遇ぶりであった。中華全国中医学会呂炳奎・任応秋両副会長ほか準備委員が北京より出張して,南陽市衛生局がこれに協力し,市を挙げての熱烈歓迎と万全の設営であった。
 漢方医学を学ぶ者が南陽市を訪れて心躍るのは,仏教徒がインドの釈尊生誕地や滅度の地を訪れて感極まるのと同じことである。
 この大会で多くの新しい交友関係が生れたが,私にとって特筆すべきことは,42年来著書や機関誌の交換,文書の往来をしてきた河北医学院楊医亜先生に初めて親しくお会いできたことであった。
 かって私達が昭和15年頃,束亜医学協会を結成し,漢方医学を通じて日中親善交流を主唱し,機関誌「東亜医学」を発行したとき,楊医亜先生は北京で「国医砥柱」誌を発行し,相互に交流を行っていた。当時,私達が中国の中医師で頻繁に学術交流をしていたのは,僅かに3人であった。
 私は翌日催された歓迎宴のとき,日本側を代表して謝辞を述べたが,その時楊先生のことにふれ,「40年来瞼の友」にめぐり会えた奇しくも嬉しい大会であったと述べて喝采を博した。楊先生も感激して,直ちに席を立って私のところにきて,しばらく握手の手を放さなかった。私の隣におられた任応秋先生から,その3人の名は,ときかれた。
 42年前,交流僅かに3名であったが,この度の大会には全中国代表300名が参加している。まさに今昔の感に耐えないことである。そのときの3人とも現在全国中医学会の理事にその名を連ねている。最長老は,南京薬学院副院長の葉橘泉先生で今年87歳,楊医亜先生は69歳,もう1人は長春市の吉林省中医中薬研究所名誉所長の張継有先生75歳である。
 「海内知己存す,天涯比隣の如し」,まことにこの言葉が実感として心に沁みたことである。
 3日目の朝,大会の運営委員代表から,このたびの日本訪中団の参加を永く記念するため,医聖祠内に記念碑を建立することになったので,仲景を賛える一文を揮毫して欲しいと紙墨が運ばれてきた。突然の申し出に恐カク困惑した私は,一日中部屋に籠って沈思黙考の末,次の如き文字をしたため,任応秋先生と団員に計り,これを任先生に委託した。南陽市を後にし,委員の方々に送られて洛陽に向い,龍門石窟や少林寺を訪れて,旅程10日間の帰路についたが,中国側の優遇は身に余るもので,この大祭典にめぐり合わせたことは生涯忘れ得ぬ,まさに千載一遇の幸運であった。ここに運営委員会の呂炳奎,任応秋両先生をはじめ,委員の先生方に対し,満腔の感謝を捧げ,さらに日中友誼の樹は常に青く,学術交流の水は長く流るることを衷心より祈るものである。

   張仲景敬仰之碑文

       医聖張仲景逝いて千七百六十余年

       傷寒金匱の論述燦として千古に耀く

       日中両国の後学故里南陽に参集し

       遺徳を翅謄して和気法筵に満つ

1982年10月21日
日中国交正常化10周年に当り張仲景学説シンポジウムに出席して
                 日本東洋医学会学術交流団代表
                 北里研究所附属東洋医学総合研究所長
                                 矢数 道明

傷寒論医学の継承と発展(仲景学説シンポジウム記録)